幸せに生きるには、努力しながら生きるしかない

努力の伴わない幸福

「幸せ」というと、意外と多くの人が「のんびりだらだらしていられる生活」のようなものを思い浮かべるようです。「宝くじでも当たらないかな」「誰かいい人が現れないだろうか」という思いはその典型例かもしれません。

でもそんな“ラッキー”が人を本当に幸せにしてくれるかといえば、そんなことは決してない。これは厳然たる事実です。
そのことを理解するのに役立ちそうな話がありましたので、紹介します。

本多静六 著『自分を生かす人生』から要約

「偶然得た幸福」は、「突然失う恐怖」に変わる

  • 偶然得た幸福は、傍から見るほどの幸福ではない。
    自分自身が「努力の賜物ではない」ことを知っているから、
    いつまた不幸の境遇に落ちはしまいかと常に不安を感じる。
    そのため決して幸福感には浸れない

当たり前の話なので議論の余地はないのですが、それでもこのことを実感的に理解できる人はあまりいないので、どうしても理解できない人はやはり一度この恐怖を味わってみるしかないのかもしれないな、とも思ったり…。

努力によって幸福を得ると、精神的にも強くなる

  • 努力によって得た幸福は、他者から見れば小さなことでも、
    自分の心の中に起こる快感は絶大なものだから、それを何度も味わうに従い、
    ついには「自分の努力一つで自分はいくらでも幸福になれる」ことを確信でき、
    すると精神的にもいよいよ快活になり勇気が起こり、
    ついには偉大なる成功をも成し遂げ、大幸福者となる
  • つまり幸福とは、単に「欲望の満たされた状態」を言うのではなく、
    その人の努力により実力で得たものでなければならないのだ。
    「偶然だろうと、得られたら幸せ」ということはない

精神的にも快活になり、勇気が起こる。これはものすごい効用だと言えはしないでしょうか。努力して幸福を得てきた人からは、どことなく自信や風格のようなものが漂っています。その自信や風格のようなものは、たんに現在の幸福な状況がそういうものをその人に漂わさせるのではなく、これまでの「得ようと努力して、実際に得てきた」という自分の人生物語の実体験があるからこそ漂うものなのでしょう。

精神の修養と、努力実行による物質的な満足

  • 多くの場合、幸福も不幸も自分の心の持ちよう一つで変化するのだから、
    まずもってあらゆる場合を幸福に感じるよう、精神上の修養が肝要である
  • 同時に、いかに聖人君子でも、長く食わずにはいられないから、
    我々は努力実行によって物質的な満足も得なければならない。
    努力実行による物質面と、心の修養による精神面の満足、
    この二つの満足が幸福には欠かせない

幸福のためにはまず、精神面が「幸福であれる精神」でなければ話になりません。しかしだからといってそのことばかりに傾き、物質的な満足を忘れてもおかしなことになってしまいます。私たちが魂だけで存在しているならいざ知らず、肉体を持って、こうして社会の中で生きている以上は、物質的な満足を求めることもまた人間に課せられた定めのようなものなのではないでしょうか。

実際、私たちの日常の中にある楽しさや美味しさや気持ちよさ等々、あらゆるものはそもそも誰かの「物質的な満足を求める心」が発端となって今日我々も享受できているのですし。

 

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