「魅力の時代」を理解する|“選ばれる”ために必要なもの

魅力主義社会

「魅力主義社会」
−− 聞いたことないと思います。それもそのはず、なにせこの記事を書くために急遽考えた造語なので。

「魅力的かどうかが重要な意味を持つ社会」というニュアンスは何となく感じ取れるんじゃないかなとは思いますが、そうは言ってもなんとも安易な造語だと自分でも思います(笑)。でもこれに代わるいい呼び名が思い付かなかったので、とりあえずこの記事ではこの名称でいかせてもらいます。

これからますます色濃くなっていく「社会の魅力主義化」のなかで、私たちはどう振る舞っていったらいいのか。純粋な資本主義の時代に通用したものがどんどん通用しなくなってきている今、そして今後、市場やお客さんに支持されるにはどうしたらいいのか。

史上最も平等で、かつ最も残酷な社会でもある『魅力主義社会』について、現状で見えているものを記事にしてみます。

資本の価値が下がり、魅力の価値が高まりつつある

資本さえあればどうにかなる時代ではなくなりつつある、のは誰もがうっすら感じていると思います。または、資本の意味が変わってきている、という風に捉えている人もいるかもしれませんね。いずれにせよ、世の中がどうも変化してきているようだぞ、世間の人々の価値観が何だか本格的に変化してきているように感じるぞ、という人は多いと思います。

過度の大資本嫌悪から、次の価値観へ

「クルマ離れ」などに代表される若者の価値観の変化も、そろそろ一周回って、やっぱり車にステータスを感じるという人もそこそこいるように感じますが、やっぱり全く魅力を感じないままだという人も大勢いて、いよいよクルマ離れも安定期に、過度の「離れ」の時期は過ぎたけれども、決して過去の高いステータスに戻ることも期待できなさそうな、そういう状態に落ち着いてきているように感じられます。

このことを少し高みから見てみると、過度の大資本嫌悪から次の価値観へ、という風に見ることができます。つまり、大資本マンセー(万歳)な時代がまずあり、しかし社会が情報化してくるにつれてどこか大資本がそれまでよりも「小さく」見えるようになり、徐々に大資本マンセーとしている価値観がダサく感じられるようになり、そしてそれが「クルマ離れ」「テレビ離れ」などの現象として現れ、しかしクルマやテレビにはそれなりに魅力もあるわけで、その魅力を魅力と感じる人たちはクルマやテレビに戻り、とはいえ過去の時代のように全体が右向け右で戻るのではなく、一部の「その魅力を魅力と感じる人たちだけ」が戻り、結果として大資本側の提供するモノや価値の評価も「そのものの魅力相応の評価」を受けるようになってきている。そしてまた資本力に乏しい者たちが世に出しているモノや価値の評価もなかなか魅力相応の評価を受けられるようになってきている、と。

この現象というか世の中の変化は、これからの時代は極端でも何でもなく「すべての人にとって重要な認識」となると思うので、少し小難しい記事になってしまうかもですが頑張って最後まで書き上げてみます。

大衆は基準を求めている。「制限速度のない道路」は大衆にとっては走りづらい。

大衆というのは基準を求めています。簡単に言うと、車でドライブする時に、ボケーッと走りたい人にとっては「制限速度○㌔」というぼんやりとした基準というのは、とても便利なんです。何か目的地があって、ムダにトロトロ走りたくない人たちも前後にいる中で、ボケーッとのんびり走り続けるには、制限速度という基準、一種の“縛り”が、実はとてもありがたかったりするんです。で、それと同じことが、大衆の人生そのものにも言えるのです。

人生に何か目的があるわけではない、何か成し遂げたいことがあるわけでもない、ただ何となく、生きたいから生きている。それが大衆です。そしてそんな大衆の人生にとっては、社会が一方的に示してくる制約、つまりは法令であったり社会上の慣例であったり常識であったりは、自身を縛るものであると同時に、道路上における標識やガードレールのような重要な役割も持っていたりもするのです。一定の基準が存在しない道路をサバイバルするのは大衆にとっては荷が重すぎるため、何らかの大きな力によって一方的にルール作りをしてほしい。意外かもしれないけれどそういう願望があるのです。

自由が増えるにつれ、「普通」になりたがる

ところが世の中の実態はどうか。世の中は今、大衆に対しても多くの選択肢が与えられるようになり(選択性の増大)、また情報の個別化も相まって、大衆は社会の中での自分の立ち居振る舞いに不安や混乱を感じるようになってきています。常にどこか不安を抱え、だから例えば当たり障りのない人間関係を構築するのが当たり前のことのようになってしまったり、他者から「キモイ」などと言われることにものすごく敏感になってしまったり、「普通の人はどう思いますか?」「これって普通ですか?」という質問がごく自然になされるような世の中になってきてしまっています。自分から見て「普通」に感じられる相手に憧れる、そういう時代になりつつあります。

「神が現れる時代」から、「神を選択する時代」へ

不安や混乱を抱え、“基準”を求めている大衆たちは、その不安や混乱を解消するために「誰かを“推す”」という行動を、無意識的に取るようになってきています。現代における「人気」とは、まさにこの“推されてる”ことを指し、単に好かれているのとは少し意味が違ってきています。

「好きだからファンになる」ということ自体は変わらないのだけれども、その「好き」の意味が昔とは微妙に違う。従来の「好きだから、ちょっとでも近づきたい」という意味の「好き」とは違い、簡単に言えば「共感」を意味する「好き」に変化してきているのです。語弊を恐れず言い換えてしまえば「共感しているから、推す」ということです。

都合のいい価値観をプロパガンダし合っている

これはどういうことかというとつまり、“基準”を求めている大衆たちは、その基準を得るために、無意識的に、「自分にとって理想的・又は都合の良いものを応援している」ということです。

たとえばアニメが好きな人なら、アニメ文化を“推す”ことで、自分にとって社会が都合の良い形に変容していくことを無意識的に願っている。たとえばあるブログにコメントを書き込んだり記事をしきりにSNSにシェアするのは、自分にとって都合の良い意見を持つそのブロガーの価値観を世間にできるだけ拡散すること、又、コメントを書き込むことで暗に“支持の表明”や僅かながらの“応援”をすることによってそのブロガーの活動が活性化することを願ったりその価値観が広まることを願っていたり、する部分があるのです。

「気付いたら世間にアイドルと認識されていた」という80年代アイドルと違い、今は自分から、たとえ全く売れていなかろうと「私はアイドルです」と宣言して、そこから人気を獲得していく時代です。要するにこれは、宗教家がキリストに憧れて「私の職業はキリストです」「今はキリスト業をしています」と言っているようなものです。

好いてる人が多いから自然とその人が神格化してくるのではなく、たくさんいる「(自称)神」の中から、大衆が自分の好きな神であったり、又は自分にとって都合の良い神であったりを、選ぶ時代。そういう時代になってきているわけです。神の成り立ちが変わってきているのです。

より本物が選ばれやすい時代に。

「多くの人が賛同しているから神になる」のではなく「自分にとって都合のいい神を選んで賛同する」という変化は、資本を持つ側の人間にとっては嫌な時代になったと感じることと思います。タレントで言えば、事務所の力でスターをつくり出すことは難しくなっただろうし、企業で言えば、いくら広告費をかけても売れるか売れないかは実際に消費者の反応を見てみないと分からなくなってしまいました。一等地に建てれば人は来る、CMを打てば売れる、という時代ではなくなってしまいました。

一方で、ヒカキンなどに代表されるユーチューバーと呼ばれる存在のような、又はプロブロガーと呼ばれる存在のような、これまでの純粋な資本主義の時代には到底現れ得なかった存在が、ごくごく一般人の中からフツーに現れるようになってきています。そしてまた、イスラム国のような、白人諸国やアメリカが過去に行ってきたことと何ら変わらないことをしているだけの国が、世界中から『悪』として当然のごとく認識されるようにもなっています。

強者に媚びても個人としての利益は享受しづらくなった

「強者が正義」というこれまでの価値観が、明らかに変化してきています。あなたが今この長い記事をここまで読んでいることも、その変化の一端かもしれません。権威ある新聞や雑誌の記事でもなければ何々大学なんちゃら教授の書いた記事でもないのに、とりあえず気になったから読んでみる、書き手が強者かどうかはさて置き内容で良し悪しを判断しようという意識が少なからずある。これは何気にものすごい時代の変化です。神の成り立ちが変わってきているから「強い者の言うことを信じておこう」「弱い者の言うことなんかどうでもいい」という価値観が薄れ、より自分にとって好ましかったり都合が良かったりする言説に耳を傾け、そしてそこにいくらかでも光を感じたら、その光をより輝かせるために応援しようとする、コメントを残したりシェアしたりしようとする、のです。

大衆が自分の頭で考えなくて済むようにしてあげるのがリーダーの役目

表面的に見ればこの時代の変化は「自分の頭で考えられる人が増えた」ようにも見えます。がしかし実際にはそうではない、と私は思います。大衆とは常に「自分の頭で考えることを拒否している存在」であり、それはいつの時代も変わらない普遍的なことなのではないかと思います。なぜなら、たとえば私の専門分野を軸にして見れば私は専門家で他者は一般人。あなたの専門分野を軸にして見れば、私がその分野の知識や情報を必要とした時はあなたは私のリーダーになり得る人であって、あなたから見たら私は一般人。そういう違いと同じで、社会における大衆とは常に「社会のことを考えていない人々」のことを指すのではないかと思うからです。

そしてまた、社会の構成員全員が社会のことを考えているような世の中は、まったく理想的とは言えないでしょう。全員が全員、社会の運営にリソースを注ぐなんて愚を犯すより、大衆は大衆としてそれぞれの持ち場で自分のリソースを注いだ方が、いいに決まっています。みんな、関心を持つものがそれぞれ違っているからこそ、世の中に多様性が生まれ、その多様性が世の中を楽しくて豊かなものにしていくのではないでしょうか。

機能だけのリーダーは選ばれない

インターネットの登場前、物理的な制限に縛られていた時代の私たちは、たとえば家の庭を綺麗にしたいと思えばガーデニングショップにでも通い、また書店で専門家の出している本を買い、それらから学んでガーデニングを楽しむことができました。ショップの店員や、たまたま手にした本を、悪く言えば盲信することができました。世界が狭かったので。

しかし今は、その頃に比べたら本当に世界が広くなりました。ガーデニングショップで「仕事だから」と接客しているような人にアドバイスを求めなくても、ガーデニング界で有名な誰々さんのブログ記事、またはおもしろ楽しくいろんな知恵を紹介してくれている素人さんのブログ、なんてものにもすぐに繋がれる時代です。より魅力的な方へ、魅力的な方へと、どんどん移動していける時代です。「1千万貯めてガーデニングショップを開いて、オレはガーデニングで食っていく」なんて時代では、ないとは言わないけれど、それだけがすべてではない時代なのは確かです。上手くいくかどうかは、資本よりも魅力にかかっています。資本主義の皮を被った、魅力主義の時代です。

自分らしく輝こう

さてそろそろまとめに入ります。
人々に推される存在になるためにはどうあるべきか。これはリーダー論やマーケティング論などともかなり被る部分だと思いますが、ただ一言で言えるのは要は「魅力的な存在になろう」ということだと思います。

そしてこの魅力というのがまた面白いもので、詳しくはこちらの記事に書いてありますが、魅力というのは惹きつける側がどんなに頑張ってみても、惹きつけられる側がいなければ成立しません。ピンクの小物が好きな人には魅力的な雑貨も、ピンク色が嫌いな人にとってはその雑貨は全然魅力的には映らないわけです。

絶対的な正解はない=健全な精神で素直に生きるのがベスト

となると、たとえば「自分はこの業界でどんな風に魅力的な存在になろう」ということをどんなに考えてみたところで、絶対的な正解というのはどこにもないわけです。そして絶対的な正解がないということは、そんな魅力主義社会の中で最も「当たる可能性が高く、コケる可能性が低い」のは、自分の感性や興味関心に素直に生きること、なのではないでしょうか。

たとえば先のガーデニングを例に取れば、ガーデニングを仕事にする上で、どう展開するか。ショップを開くか、学位なんかを取って専門家として活動していくか、またはブログやユーチューブを使って直接ファンと取引する形でビジネスを展開していくか。展開の仕方はいろいろあると思います。ただどう展開するかは今はさして問題ではなく、それよりも自身がお客さんから「あぁこの人は本当にガーデニングが好きなんだな」「この人から教わるとガーデニングがすごく楽しく感じる」などと思われる人間になること。そう感じさせるほどにまず自分がガーデニングを楽しむこと。それが何より重要なんじゃないでしょうか。


ということで、長くなってしまいましたが以上です。
ではでは。

 

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