侵略者たちは言う、「彼らを助けたい」と。|求められてない援助は相手を傷つける

侵略者たちは言う、「彼らを助けたい」と。|求められてない援助は相手を傷つける

「侵略者たちはいつだって気高い志に燃えている」
という話が自分的に衝撃的だったので、今読んでいる本から一部を抜粋して紹介。

先進国の人間が「途上国の恵まれない人々のために」と思って行っていることは、実はヒトラーや西部開拓時代の奴隷制度と大差ない行為なのかもしれない、なんてことを考えさせられました。

吉成真由美 インタビュー『知の逆転』から紹介

侵略者はいつも気高い志に燃えていた

  • 歴史上、侵略者がなんらかの人道的な活動に従事していなかったためしはほとんどありません。(中略)日本が満州を征服した際も、気高い志に燃えていました。われわれは中国を地上の楽園にする、日本は全てを犠牲にして中国人民と満州人民を中国の蛮賊から守るのだ、と。

まさか侵略者の例として日本の行った満州での話が出てくるとは思いもしませんでした。そのことに驚き、正直、受け入れるのに精神的抵抗がありました。

が、逆にこの日本の行為への言及があったことで、立場による解釈の違いを実感でき、その後の記述についても深く考えさせられるきっかけになりました。

強者が弱者を積極的に援助すると、それは侵攻になってしまう可能性が大きい

  • ヒットラーがチェコスロバキアのズデーテン地方を占領したときも、これはドイツ人による立派な行為である、これによって民族間の闘争を終結させ、史上はじめて人々が一緒に幸せに暮らすことができるようになる。ドイツ人が持っている、より進んだ資材と技術を広めることによって彼らを援助できるのだ、これは高貴な行いである、と。

「より進んだ資材と技術を広めることによって彼らを援助」なんて、まさに今でも行われている国際人道支援そのものではないでしょうか。

もっと細かい例で言えば、「あなたのために…」と言って行われる何らかの強制的な行為は全て、組織→個人、または個人→個人の、侵略的な行為だとも言えます。たとえば広義の教育にありがちなこととかでも。

仮にその先に本当に相手の幸福があったとしても、そこに苦痛が伴っている以上、その苦痛を相手が声高に訴えさえすれば、第三者から見たらそれは侵略行為だと認識されるのかもしれません。

奴隷は本当に不幸か?雇用契約は本当に幸福か?

  • アメリカ南部の奴隷所有者たちも実際かなり的を射た論理展開をしていたのです。われわれは北部の製造業者たちよりはるかに慈悲深い、なぜならわれわれは労働者を所有しているからだ。もし車を所有していたら、それを大事にするだろう。それと同じだ。単に彼らを雇っているだけなら、特別に世話しようとは思わないだろう。いらなくなったらポイ捨てすればいいからだ、と。たしかにある種の真理をついています。

奴隷を所有することが本当にいけないことなのか?奴隷は本当にかわいそうな人たちなのか?

現代日本には逆に、解雇や失職を恐れ、会社に奴隷として自分を所有してもらい、要は暮らしを保証してもらえることを望んでいる人だって、大勢いるように思えます。

実際に個々の事例をつぶさに見ていけば、製造業者に解雇されて路頭に迷った上に路上で飢えに苦しみながら亡くなっていったような人だっているでしょう。そんな人に比べたら、奴隷として日々の暮らしを保証されていた人たちの方がよっぽど幸せだったかもわかりません。

「労働者を大切に思っているから彼らを所有している」という奴隷所有者の考え方も、「人は自由に生きる権利があるから奴隷制度はけしからん」という一般的な考え方も、どちらも一概に善だの悪だのと決めてかかることはできないのかもしれません。

まとめ

自分の志も大事だけど、それ以上に相手の感じ方、そして周りの人々の見方も大事だなあと。そんなことを改めて考えさせられました。

「正しい目的のためなら手段を選ばない」ではダメですね。
「正しい目的のためには手段も正しくなければならない」ですね。

しかもその“正しい手段”とは、その前提に「相手の窮状」があってこそのもの。客観的に見て近い将来明らかにすげー困ることが明らかな相手に対してでも、まだ本人が困っていないうちに軌道修正を強制しては、それではただの「侵攻」になってしまいます。相手からは「自分が主導権を握ろうとしている」「何か裏があるに違いない」と思われてしまいます。

人間関係は難しいですね。


以上です、
ではまた

 

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